フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890) の作品は、今日までどのように伝えられてきたのでしょうか。 本展は、ファン・ゴッホ家が受け継いできたファミリー・コレクションに焦点を当てた日本初の展覧会です。
フィンセントの画業を支え、その大部分の作品を保管していた弟テオ。 |
フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890) は、今や世界中で最も広く知られ、深く愛されている画家のひとりです。 |
会期: 2025 9/12 [金]~ 12/21 [日] 開催中。 |
'2025 9_11 「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」 報道内覧会展示風景・開会式、プレスリリース、「ゴッホ展」 図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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・画像をクリックすると 【主催者、来賓者ご挨拶】 「ヒルス・ベスホー・プルッフ閣下(駐日オランダ王国特命全権大使)、エミリー・ゴーデンカー(ファン・ゴッホ美術館館長)、ヤンティンヌ・ファン・ゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホ財団理事長)、高橋 明也(東京都美術館館長)」 のスピーチがご覧いただけます。 |
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」 |
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」 展覧会の見どころと展示構成 |
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本展では、ファン・ゴッホ美術館の全面的な協力を得て、ファン・ゴッホ家のコレクションであった油彩画を中心に 30 点以上のファン・ゴッホ作品をはじめとして、日本初となる貴重なゴッホの手紙 4 通も展示します。 また、1973 年の同館開館以降に収蔵されたほかの画家たちの作品も多数展示し、ファン・ゴッホ美術館の活発な取り組みとフィンセント・ファン・ゴッホ財団の継続的な支援をご紹介します。 さらに、最新の映像技術を用いたイマーシブ空間も展示に取り入れ、ファン・ゴッホと家族の活動の軌跡をたどります。 |
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作品リスト| List of Works |
'2025 9_11 「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、「ゴッホ展」図録をもとにご紹介しています。 |
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【 第 1 章 ファン・ゴッホ家のコレクションからファン・ゴッホ美術館へ Chapter 1 From Van Gogh family collection to Van Gogh Museum |
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ファン・ゴッホ家のコレクションは、フィンセント・ファン・ゴッホが 37歳でこの世を去り、弟テオが兄の作品の大半を相続した時に始まる。 テオは印象派をはじめ、1880 年代のパリの前衛的な美術を扱う画商として頭角を現しており、フィンセントが芸術観を深める助けとなった。 テオは重い病に伏し、33 歳で逝去した。 彼の遺産には、兄フィンセントがわずか 10 年間で生み出した驚くべき数の作品に加え、ふたりで収集した日本の浮世絵版画や主にテオが購入した近代美術の油彩画と素描などの作品も含まれていた。 1889 年 4 月 18 日、ヨーことヨハンナ・ボンゲルはテオと結婚した。 テオの友人アンドリース・ボンゲルが妹ヨーを紹介した。 ヨーとテオが結婚を決めた時、フィンセントはまだアルルにいた。 彼は、1888 年 12 月に最初の病気の発作の後、1889 年 5 月、サン=ポール=ド=モーゾール療養院に入院した。 体調のよい時期に制作された作品の数々は継続してパリに届けられ、その多くが傑作であった。 フィンセントは 1890 年 7 月 29 日にオーヴェールで死去した。 テオは悲しみに打ちひしがれ、この頃すでに健康を害していたが、病に倒れ、翌年 1 月 25 日にこの世を去った。 これによりヨーと幼い息子フィンセント・ウィレムは、ファン・ゴッホ兄弟が集めたコレクションと、美術品の膨大な遺産を相続した。 1925年 9月 2日、ヨーは、63歳を迎える少し前に亡くなった。 その後、フィンセント・ウィレムがこの遺産の唯一の継承者となった。 彼は、コレクションをまとめて保持することと、新たに作品を加えることの重要性を強く認識し、1949 年に最初のフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立した。 フィンセント・ウィレムは 1973 年に開館した国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館の設立に尽力した。 |
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左・No.1 ジョン・ピーター・ラッセル 《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》 1886 年 油彩、カンヴァス 60.1 x 45.6cm ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) / ・No.6 ポール・ゴーガン 《クレオパトラの壺》 1887-88 年 炻器 13.5 x 12.5 x 10.0cm ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) / 右・No.7 ポール・ゴーガン 《雪のパリ》 1894 年 油彩、カンヴァス 72.0 x 88.0cm ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) |
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・No.1 ジョン・ピーター・ラッセル 《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》 パリに滞在していた頃のファン・ゴッホには親しい芸術家仲間が数人おり、そのなかのひとりがオーストラリア出身の画家ラッセルだった。 ラッセルは見事に正確なファン・ゴッホの肖像画を描き、彼に贈っている。 / ・No.6 ポール・ゴーガン 《クレオパトラの壺》 ゴーガンは絵画だけでなく、版画にも才能を示し、また木彫や陶芸でも立体作品を制作した。 / ・No.7 ポール・ゴーガン 《雪のパリ》 1891 年からタヒチに 2 年滞在したゴーガンは、1893 年にパリに戻り、モンパルナス地区のヴェルサンジェトリクス通りに面した建物の 3 階のアトリエに落ち着いた。 次の春にはブルターニュ地方にまた旅立つ。 本作は、そのパリのアトリエから見える風景を描いた、非常に写実的な作品である。 |
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【 第 4 章 ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルが売却した絵画 Chapter 4 Paintings sold by Jo van Gogh-Bonger】 |
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ヨーはもともと美術分野では素人であったが、しだいに近代美術、美術館や個人収集家の世界、美術取引の仕組みについて深い洞察力を身につけていった。 ヨーと息子フィンセント・ウィレムは膨大な数のファン・ゴッホの油彩画や素描を相続した。 ヨーはこれらの作品を定期的に売却して安定した収入を得る必要もあったが、彼女にとって商業的な利益は第一の関心事ではなかった。 ファン・ゴッホ作品に対する深い理解と、彼が近代美術の中心的人物であるという確信ももつようになったヨーは、彼をその文脈で紹介したいと強く望むようになっていった。 ヨーの尽力を明らかにするこの上ない資料は、ファン・ゴッホ家のコレクションに保管されている。 テオとヨーがパリで一緒に暮らしていた時に始めた会計簿である。 ヨーが定期的に美術品の売却を始めたことで、どの作品がいつ誰に売却されたかを示す重要な資料となった。 2002 年には、この会計簿に注釈付きの学術書が出版され、ファン・ゴッホが描いた 170 点以上の油彩画と紙に描かれた作品 44 点が特定された。 |
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・No.54 フィンセント・ファン・ゴッホ 《モンマルトルの菜園》 1887 年、パリ 油彩、カンヴァス 113.5 x 146.0cm アムステルダム市立美術館 / ・No.51 テオ・ファン・ゴッホ、ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 『テオ・ファンゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿』 1889-1925 年 インク、紙 22.5 x 17.0cm ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) / ・53 フィンセント・ファン・ゴッホ 《ボートの浮かぶセーヌ川》 1887 年 5 月中旬- 6 月下旬、パリ 油彩、カンヴァス 55.5 x 65cm 個人蔵 |
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・No.54 フィンセント・ファン・ゴッホ 《モンマルトルの菜園》 本作は、ファン・ゴッホの全作品の中で最大の絵画である。 1887 年 7 月下旬、パリにいたフィンセントは、その頃オランダに滞在中だったテオ宛ての手紙で、「こういう大きくて長い絵が売りにくいことはわかっているさ。 だが、いずれ人々は、そこに外の大気と陽気な明るさがあることに気づくだろう」 と書いている。 本作は、小さな畑や物置小屋など、モンマルトルの丘に残る田園風景を描いた作品である。 / ・No.51 テオ・ファン・ゴッホ、ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 『テオ・ファンゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿』 ファン・ゴッホ美術館に、黒と灰色の大理石模様の表紙を持つ簡素な中サイズのノートが所蔵されている。 テオとヨーが 1889 年にパリで新婚生活を始めた時から使っていた会計簿である。 これには夫妻の財産状況 (所有していた株式など)、テオが兄のために購入した画材や毎月送金していた金額、さらには日常生活における洗濯女や肉屋、食料雑貨店への支払いなどが記載されているが、この会計簿の本当の価値は、作品売却についてのヨーの記録にある。 ヨーは、義兄フィンセントの作品をはじめ、家族のコレクションの作品を新しい所有者へ売却するたびに丁寧に書き留めていた。 / ・No.53 フィンセント・ファン・ゴッホ 《ボートの浮かぶセーヌ川》 1887 年の夏、ファン・ゴッホはパリで 3 組の三連画を制作した。 いずれも風景や川の情景を題材としており、本作も、グランド・ジャット島を描いたほかの 2 作品とともに三連画をなしている。 本作を含め、これらの三連画は、1897 年にヨーによって画商アンブロワーズ・ヴォラールに売却された。 |
画像をクリックすると 本展監修者 シラール・ファン・ヒューフテン (美術史家)& |
・左側フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890)/・テオドルス・ファン・ゴッホ(愛称 テオ、1857-1891)フィンセントの弟 /・ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル (愛称 ヨー、1862-1925) フィンセントの義妹 /右・フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ (愛称 エンジニア、1890-1978) フィンセントの甥 |
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フィンセント・ファン・ゴッホ財団がなければ、そしてその創設者である 「エンジニア」 ことフィンセント・ウィレムの積極的な決断がなければ、間違いなくファン・ゴッホ美術館が誕生することはなかった。 とはいえ、財団と美術館はつねに同じ目標をもつ対等なパートナーとして機能してきた。
年月を重ねるにつれてファン・ゴッホ美術館は、財団が所有する作品や開館以降に収蔵されたすべての作品が、最高水準のキュレーション、保存処置、調査研究、セキュリティのもとに保管される、高度に専門的な施設へと発展した。
美術館は財団から完全に信頼されていて、財団はコレクションの拡充や研究を可能にするために惜しみない支援を行ってきた。 財団と美術館はともに、作品貸出について、寛大な方針をうたっている。 これにより、ヨーとフィンセント・ウィレムが築いた、ファン・ゴッホの作品に広く親しんでもらうという伝統は、今なお脈々と受け継がれている。 |
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ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム |
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オランダ・アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館には、フィンセント・ファン・ゴッホの約 200 点の油彩画や 500 点にのぼる素描画をはじめ、弟テオに宛てた手紙や関連する画家の作品、フィンセントが集めた日本の浮世絵などが所蔵されている。 その多くは 1973 年の開館時に、テオの息子フィンセント・ウィレムが創設したフィンセント・ファン・ゴッホ財団から永久貸与されたコレクションである。 当初の建物はヘリット・リートフェルトによる設計で、1999 年には黒川紀章による新館が開館した。 世界中から多くの鑑賞者を迎えるだけでなく、ファン・ゴッホ研究の拠点ともなっている。 |
お問合せ:tel 050-5541-8600(ハローダイヤル) |
主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団 )、NHK 、NHKプロモーション、東京新聞 |
参考資料:「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」図録、 報道内覧会、PRESS RELEASE & 報道資料 、展示パネル他。 |
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